つれづれ日記

37歳、36歳で第一子出産、育休中。

父の死

久しぶりのポストです。はい。

タイトルからしてダークサイドな話ですいません。

これに関して、まぁほぼほぼ自己満足でやってるブログとはいえ、ワールドワイドに公開されている場所に書く、ということについて自分の中でも葛藤がありました。

 

が、自分の気持ち整理のためにも少し書いておきたいと思います。

後は同じく家族の終末期を迎えられている方に少しでも参考になれば。と。

 

 

私の父は脳腫瘍でした。

発覚したのは2017年4月中旬。

しかし、3月下旬あたりから容態はおかしく、表情にこわばりがでたり、足の麻痺が始まっていたようで周りからみて明らかにおかしいとわかる様子でした。

再三の周りの勧めで病院に行き、、診断は脳腫瘍。

 

診断された頃には1日単位で麻痺が進んでいた状況でした。

 

診断からしておそらくグレード3、という話でしたが、腫瘍が複数個所にわたっており、特に脳幹に近い部分に出来た腫瘍に関してはほぼ手がつけられないでしょう。という話でした。

手術しても麻痺が治るとは思わないでください。と言われて受けた手術。

結果として麻痺はよりいっそう強くなり、父は完全に左半身の機能を失いました。

 

放射線治療の結果、腫瘍はだいぶ小さくなりましたが、根滅にはいたらず。

いずれは再発するでしょう。といわれ、余命宣告は13ヶ月。

グレード4、膠芽腫でした。

 

 

そこから介護生活がスタートしました。

 

 

退院した頃はいくばくかのリハビリの効果が出て、多少補助用具を使いながら歩いたり、介助つきながらトイレにいったりと生活的にも多少余裕があった時期があります。

しかし、4週間の抗がん剤のローテーションを重ねるたびに父の体力は低下し、歩いたり立ったりすることがどんどん困難になっていきました。

 

そして、退院して3ヶ月程度で父は自力で歩けなくなりました。

 

それが抗がん剤のせいか、脳腫瘍の進行のせいだったのかはわかりません。

 

しかし、抗がん剤が終わる最後の1週間だけは父が父らしく話したり、生活したりしている様子をみて、私は抗がん剤はもう使わないほうがよいのではないかと考え始めました。

 

 

脳腫瘍の抗がん剤はアバスチンとテモダールという2種類があります。

アバスチンは最初の1,2回投与して、副作用が強くてすぐやめたのでテモダールを続けていたのですが、遺伝子検査の結果、父にはテモダールが効きにくいという結果が出ており、そもそも抗がん剤の使用に疑問があったからということもあります。

 

その頃は退院して3ヶ月。父はデイサービスにもショートステイにも行っていませんでした。

母は毎日の介護に疲弊しており、これがいつまで続くのかという思いもあったと思います。

 

 

最終的に先生と話し合い、抗がん剤をやめたい。という話し合いを使用としたとき、家族の私達が決断を下す前に父が自ら「もう抗がん剤はやらない」と先生に明言しました。

 

その頃の父は会話のやり取りがうまく出来る感じではなく、かなり時間をかけないとしゃべれない状態だったのですが、先生の前ではすんなりとタイミングよくもうやらない。と発言しました。

 

 

 

私は父にそんな判断能力や、発言できる力があると思っていなかったのでとてもビックリしました。父が正気に戻ってくれた一瞬でした。

 

そこから父は抗がん剤をやめ、調子が良いときと悪いときを繰り返しながら、だんだんと衰えていきました。

 

2月に入り、父の口数はどんどんへっていき、あまり話せなくなりました。

調子のよいときだけ、振り絞って会話する日々でした。

  

3月に入り、父はどんどん衰えていきました。食べ物を食べる力がなくなり、むせこみが多くなりました。

母も体力に限界がきており、ショートステイが入らないと介護が厳しくなっていたときでした。

 

父がショートステイに入って2日目に高熱を出したので自宅に戻ってくると連絡がありました。

次の日に熱は下がったものの、むせこみがひどいので一時入院(緩和ケア)しようということになり、3月7日に入院が決まりました。

入院した父の容態をみて、これはやばい。と確信しました。

 

母は熱が下がって再び食べられるようになったら自宅に戻ってくる。と考えていたようですが、病院から呼び出されて聞かされた診断はもうわずかな余命宣告でした。

 

父はもう食べ物を受け付けない体になっていました。

人間は死期が近づくと食べ物を受け付けなくなるそうです。

 

 

ですので、1日500mlの点滴を投与して様子を見て、それも厳しそうであれば点滴の量を減らします。と言われました。

 

そこから、3日間500mlの点滴をしましたが、痰の量が多く容態が悪化することから、点滴量は1日100mlに減りました。

 

最終的な父の体は1日500mlもの水も受け付けない体になっていました。

100mlの点滴に減らしてからは痰の量も減り、穏やかに眠るようになっていました。

 

 

点滴を減らしてから3日後には起きることもなくなり、ずっと眠るようになっていました。(それまでは手を握ったら握り返してくれたり、たまに目を開けたり、というコミュニケーションがありました)

 

 

そして、点滴を減らしてからちょうど1週間後の日曜の朝、病院からチアノーゼが出始めたので至急来てください。と言われました。

 

 

あわてて家族全員で駆けつけると父は定期的な呼吸をしており、まだ大丈夫そう。ということで、そこから4時間ぐらい滞在した後、適宜昼休憩を取りに戻ったりとしているうちに、父は母だけがそばにいるときに逝ってしまいました。

 

 

呼吸が乱れることなく、本当に眠るように呼吸が止まったと後に聞きました。

 

 

 

 

父が病名を宣告されてからちょうど11ヶ月の日のことでした。

 

 

 

 

父の病気が発覚してからこうすれがよかったと後悔している点がいくつもあります。

 

 

 

 

1つは実家近くの病院で脳腫瘍の手術を受けてしまったこと。

手術が成功だったか、といわれれば、おそらくもうやりようがなかったところの最大限だったと思います。

ただ、麻痺が強くなったのは確かで、そこに関してはやはり悔しいという気持ちが付きまとっています。

 

手術が決まってから「脳腫瘍といえば女子医大」ということを知りました。

 

術中MRIのありなしは大きいと思います。

ただ、今の女子医大は脳腫瘍の患者が殺到しており、手術まで半年待ちという話も見たので、年老いた父は近隣の総合病院でよかったのかもしれません。しかし、手術前に1回行ってみてからの判断であれば、このようなタラレバの後悔をすることもなかったと思います。

 

2つ目はケアマネージャーにまかせきりで、半年以上介護内容がぐだぐだだったことです。

 

退院した頃の父はまだかなり意欲的であったにも関わらず、ほぼ自宅で過ごしていました。(入浴すら自宅サービスだったのです。普通に杖つければ歩けたのに・・・)

 

あの頃にリハビリデイに通っていたり、他のデイサービスに通っていれば、父の気持ちも母の気持ちももっと変わっていたでしょう。

3ヶ月間、自宅にこもりきりの介護生活というのは父にとっても、母にとってもかなりつらい経験となりました。

 

 

 

3つ目は信頼する在宅医師に出会えなかったことです。

ケアマネの一存で紹介された在宅医師は週3-4日くる割には体温血圧はかって帰っていくだけでなんら指導もない人でした。

話をしてもどこか折り合わず、脳腫瘍についてもさして知識もなく、薬の名前を間違えるほどの人でした。

 

 

6ヶ月目にして事情を病院に話し、医師を紹介してもらい、担当医師を変更しました。

そこで初めて処方されている薬の効能を確認し、父には不要な薬(眠気が強くなる薬)が半年以上出されていたことが発覚しました。

それ以外にも不要な医療品を押し付けられていたりと、色々とおかしな点が多い医師でした。

 

 

 

総合的に見るとケアマネに関する不満が多いですね。

本当に自分は介護に関して無知で、世間知らずでした。

でも、きっとそういう人が大半なんだと思います。

 

大切な人が急に病気で介護が必要になる。

その時っていうのは本当に「急」で予備知識なんて本当にないんです。

 

 

そのときになって色々調べようと思っても、介護に関する疑問ってなぜかブラックボックスのようになっているのか、当時の私が検索してもなかなか答えになる内容にたどり着くことが出来ませんでした。

 

 

 

もし、このポストがその「急」なときを迎えている誰かにあたって、参考になることがあれば幸いです。